現代の武士

12月の第1週目は例年ベルリンでの講習会で講師としてセミナーを行っている。過去4年連続で主に体の使い方をテーマに行ったが、主催者側が今後少し違ったテーマを他の講師の先生に頼みたいとの意向で、とりあえず最後のセミナーとなった。

休憩中に思いがけず参加者から「え、先生日頃会社で働いているのですか?てっきり専業武士かとおもっていました」と言われ、思わず「会社で仕事している時も武士です」と答えた。

長年武道をやっていると、結局は稽古以外の日常をどう過ごすかによって武道的理解度の裾野が広がりまた奥行きも広がっていくように感じる。「稽古は晴れの日の如く、晴れの日は稽古の如く」と言われるように、晴れの日はつまり、日常のことで、日常の積み重ね、継続した一貫性のある正しい生活がつまりは人を作り、稽古ではその日常の行動・思考が正しいものであるかを推し量る場であるように感じている。したがって、日頃が常稽古で、実際の稽古は日頃の生活が正しいかどうかを試す場とも言えないであろうか?このような武道的生活を継続してされているのがフランスのS先生で、まさに骨のレベルまで浸透して醸し出される品は一朝一夕ではできない良い例だと思う。究極的には、試合や審査といった自己を試す場に臨む前にすでに勝負は決まっているように感じる。昔の武士は一所懸命と集中的に昼夜を忘れるくらいに命を懸けて事にあたったという。

現代は特に情報化の時代と言われるように圧倒的情報量に惑わされて、多所翻弄して人生を過ごしがちになっていないだろうか?時代の変遷により生活を便利(楽)にするための発明が進み、それと同時に人間の感覚が益々退化をたどって行っているように思える。武道は時代の流れからすると逆行しているように見えるが、実は先代が培ってきた身体能力の退化を少しでも防ぐものではないかと思う。特に現在でも使用している弓が完成されたと云われている14・15世紀の武士の身体能力は現代人の理解を遥かに凌駕するレベルであったと推測される。物が豊かになり生活が楽になるに従って身体能力が退化するのは誠に残念に思う。だからこそ現代において、武士として生活する(日常を稽古の場とする)ことは、現代では失われつつあるものを稽古(古に学ぶ)することではないかと思う。