今回一番驚いたことは、第二介添えが的場で控える際に折り畳み式の椅子を用いてもよいということであった。理由としては①弓道の高齢化が進んでおり、年寄に配慮②大切な射手の矢をバランスを失って地面に接しないようということであった。
襷捌きで事故を未然に防ぐために立射では襷かけを射場本座で行わせないということは、演舞者が自分の力量を推し量ることができない、または行射中に袖が襷から出ても気づくことができないという前提にたったものというように理解もでき、また審査等では日頃の習得を審査してもらうためのものであるにも関わらず、自信がなければ控えでおこなってもよいと、できない人への配慮というふうにも理解できる。もしそうであるならば本来の武道の目指すところから外れてきているのではないかと危惧している。
もちろん弓道も時代や社会通念の変化についていかなればならない。例としてはセクハラやパワハラにならない指導等は時代に合わせていく必要がある。しかし、武道は本来何を目指しているのかと理念は昨今問わず継承していくべきではないであろうか?私の考える武道の理念とは、武道の指導はできるだけ多くの人が最低レベルにたどり着けるようなボトムアップ方式ではなく、あくまで次の世代を担えるごくわずかな逸材を発見し伸ばすことではないかと思う。昔は多くの弟子の中で一人でも師の技を継承できる一人の逸材がいれば十分で、残りは途中でやめたり、取り残してもしょうがないという考え方であったのではないかと思う。よって仮にある流派の師匠が出来の悪い弟子10人が最低レベルになるまで多くの時間を費やし、結局逸材を発見できなかった、あるいは逸材を伸ばすことができなければ家や流派も途絶えていただろう。
以上のことから特に先進国等で社会にゆとりが出てきた国で可能となった弱者救済といった社会通念を武道で配慮しすぎると将来の逸材や弓道全体のレベル低下につながるのではないだろうか?と思う。であるので、現在の講習会でも(自分も講師として指導する身として)主にはできない人へ多くの時間を費やし、できる人はほとんど指導しないまたはできないということになっていないだろうか?これは自分に言い聞かせている言葉だが、
「皆が最低レベルにたどり着かなくてもよい、厳しい指導の中で生き残った最後の一人が将来へのバトンをつないでくれたらいい」
というくらいの気持ちが必要で現在足りていないと気付いた。また指導者もしかりで指導で自分が弓を引く時間がないからと言い訳して、自ら模範的な射を見せることができない理由付けにしているのではないか?指導者は弟子よりも高い位置までたどり着き、常に先を進み向上し続けている姿を見せるべきで、模範を示すことで弟子も進むべき道が明確に見えるというのが本来ではないだろうか?指導者も自分の天井に限界をつくらず、人の指導よりもまずは自分の射の向上を目指し、自らが会得したものを弟子に与える。天井が高くなればなるほど弟子の伸びしろも大きくなるような環境づくりも大切になってくる。上の天井が伸びれば伸びるほど下から引き上がってくるのであって、上を伸ばさずに、下から下の線から漏れる人を最低ラインまで伸ばそう伸ばそうとすることによって、真ん中が詰まって、画一的ないわゆる金太郎あめのような、同じレベルの人をたくさん製造してしまうシステムになりかねない、
武道では裾野を広げるよりも指導者自ら天井を高くし、逸材の伸びしろをつくり続けることが重要。
最後に弓道は社会との関わりを保つ地域のコミュニティーという要素、大会等のスポーツ的要素、審査等で自己表現と能力の向上という要素、また修行として徳をつみ人間完成としての道という要素等、人によって様々な意味を見出せるという点においては現在の社会で重要な機能を持つといえる。立場によっては先ずは裾野を広げることが最重要とする人もいれば、射技の向上、あるいは射品の向上あるいは、人格形成が最重要という人もいるだろう。今回は自分が欧州での一指導者としての立場で連盟の方向性についての個人的意見を述べさせていただいた。
もしこのブログを読んで違った立場で違った価値観を持たれている方からの意見をもらえれば大変うれしい。