Archiv der Kategorie: Kyudo-Gedanken

2026年称号者セミナーでの感想2 - 武道においての弱者救済の考え方について

今回一番驚いたことは、第二介添えが的場で控える際に折り畳み式の椅子を用いてもよいということであった。理由としては①弓道の高齢化が進んでおり、年寄に配慮②不意にバランスを失って大切な射手の矢を地面に接しないようということであった。よい意味では失を未然に防ぎ機会の公平性を確保するともとれるが、私的には弱者救済的措置は本来の武道の精神に反するのではないかと思った。

第二介添えが出来なくなった人、あるいは元々できない人にも機会を与える=晴れの場所でしっかりできるような稽古をしなくても、役割を遂行することができるという構造

介添えに限らず、襷捌きで事故を未然に防ぐために立射では襷かけを射場本座で行わせないということは、演舞者が自分の力量を推し量ることができない、または行射中に袖が襷から出ても気づくことができないという前提にたったものというように理解もでき、また審査等では日頃の習得を審査してもらうためのものであるにも関わらず、襷捌きの自信がなければ、あるいは所作が出来なければ、控えでおこなってもよいと、できない人への配慮というふうにも理解できる。もしそうであるならば本来の武道の目指すところから外れてきているのではないかと危惧している。

もちろん弓道も時代や社会通念の変化についていかなればならない。例としてはセクハラやパワハラにならない指導等は時代に合わせていく必要がある。しかし、武道は本来何を目指しているのかと理念は昨今問わず継承していくべきではないであろうか?私の考える武道の理念とは、武道の指導はできるだけ多くの人が最低レベルにたどり着けるようなボトムアップ方式ではなく、あくまで次の世代を担えるごくわずかな逸材を発見し伸ばすことではないかと思う。昔は多くの弟子の中で一人でも師の技を継承できる一人の逸材がいれば十分で、残りは途中でやめたり、取り残してもしょうがないという考え方であったのではないかと思う。もしある流派の師匠が多くの出来の悪い弟子を最低レベルになるまで多くの時間を費やし、結局逸材を発見できなかった、あるいは逸材を伸ばすことができなければ家や流派も途絶えていただろう。

以上のことから特に先進国等で社会にゆとりが出てきた国で可能となった弱者救済といった社会通念を武道で配慮しすぎると将来の逸材や弓道全体のレベル低下につながるのではないだろうか?と思う。自分も講師として指導する身として振り返ると、講習会中はできない人へ多くの時間を費やし、できる人へはあまり指導しない状態になっていると認識できる。しかし、次世代の指導者育成のためには逸材をもっと伸ばすように時間を配分するようにした方がよいだろう。

「皆が最低レベルにたどり着かなくてもよい、厳しい指導の中で生き残った最後の一人が将来へのバトンをつないでくれたらいい」

というくらいの気持ちが自分で足りていないと気付いた。

私の知っている指導者の中には、自分が弓を引く時間がないからと言い訳して、自ら模範的な射を見せることができない理由付けにしているのでは?と思われる人もいる。指導者は弟子よりも高い位置までたどり着き、常に先を進み向上し続けている姿を見せるべきで、模範を示すことで弟子も進むべき道が明確に見えるというのが本来ではないだろうか?指導者も自分の天井に限界をつくらず、人の指導よりもまずは自分の射の向上を目指し、自らが会得したものを弟子に与える。天井が高くなればなるほど弟子の伸びしろも大きくなるような環境づくりも大切になってくる。上の天井が伸びれば伸びるほど下から引き上がってくるのであって、上を伸ばさずに、下から下の線から漏れる人を最低ラインまで伸ばそう伸ばそうとすることによって、真ん中が詰まって、画一的ないわゆる金太郎あめのような、同じレベルの人をたくさん製造してしまうシステムになりかねない、

武道では裾野を広げるよりも指導者自らの天井を高くし、逸材の伸びしろをつくり続けることが重要。

最後に弓道は社会との関わりを保つ地域のコミュニティーという要素、大会等のスポーツ的要素、審査等で自己表現と能力の向上という要素、また修行として徳をつみ人間完成としての道という要素等、人によって様々な意味を見出せるという点においては現在の社会で重要な機能を持つといえる。立場によっては先ずは裾野を広げることが最重要とする人もいれば、射技の向上、あるいは射品の向上あるいは、人格形成が最重要という人もいるだろう。今回は自分が欧州での一指導者としての立場で連盟の方向性についての個人的意見を述べさせていただいた。

もしこのブログを読んで違った立場で違った価値観を持たれている方からの意見をもらえれば大変うれしい。

2026年称号者セミナーでの感想1 - 女性の襷捌きについて

2026年は、欧州講習会は開催されず、称号者のみを対象としたセミナーがフランクフルトで開催され、その後3段以上の審査が行われた、今回は称号者セミナーでの気づきを書いてみたい。

セミナーの後も物議をかもしたのは、女性の「本座での襷捌き」についてであった。すでに2年ほど前から審査等では立射での襷捌きは、控えで行い、射場では行わないよう指導方針が出ていた。背景としては立射での襷捌きは片手での所作となることから襷がしっかりと袖をとらえにくく、弦が左の袖を払って矢が思わぬところに飛んでしまった事故があったからということであった。今回のセミナーでは追加で本座で座射にて襷捌きを行う場合も、膝に乗せた弓と矢が落ちる失を未然に防ぐために、控えで準備することもできるという説明がされた。

人によっては「女性差別だ、女性が男性と同じように本座で所作をさせない方針」とか「基本的に本座でのたすき捌きは座射でも立射でもしないように」と理解した人さまざまであった。よってその後に講師の方と話しをして自分なりには以下のように理解した。

  • 審査・演舞においては立射の場合は控えでたすきがけを行う
  • 座射の場合は、審査では減点対象となる失を起こす可能性がある場合は、控えでたすきがけをしてもよいという選択肢が与えられた。よって、控えでたすき捌きをしても審査の評価外になるということ。(武器である弓と矢が体から乖離して床に落ちることは大きな失であるとの説明)
  • 本座での立射あるいは座射でのたすきがけについては、上記のイベント以外では連盟の関与するところではない。よって各地連や道場でのイベントでの矢渡し、射礼、演舞においては今まで通り、立射であっても座射であっても本座でたすきがけを行うことについては問題ない
連盟主催の審査・演舞地方、各道場での矢渡し、射礼、演舞
立射控えでたすき掛けを行う。選択肢あり
座射選択肢あり※選択肢あり

※今までも選択肢はあったはずであるが、ほとんどの人が座射・立射にかかわらず、本座で襷捌きを行っていた。

私のように襷捌きを行わない者の意見としては不十分かもしれないが、審査等で本座で襷捌きを行わない=稽古をしなくてもよいではなく、どんな状況でもしっかりと襷捌きができるような稽古を日頃からしっかり行えば、失の心配もなく逆に加点はなくても全体の印象をよくする効果があると考える。また現在座射の人も、ケガ等で立射で襷捌きを行う必要があってもすぐに対応できるくらいの準備・稽古をする必要はあると思う。立射の人も審査以外で座射に遅れることなくしっかりできるくらいの稽古は日頃からすべきであろう。

襷捌きをする必要性はなくても、いつでもできる状態を保つのが武道の心であろう。

介添えの心持について

今回も全く私的に介添えの心持について解説をしてみたい。弓道では矢渡しや納射等で射手が一手を引く際に、二人の介添えが付くことが通例となっている。弓道に限ったことではないが、動作自体よりも心の持ち方の方が重要であるとよく言われる。特に介添えは主ではなく従に転じ、射手をいかに引き立てるのかが重要となってくる。

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型と形について

今までに 審査規定は 何度も読んでいて、最近では「審査統一基準」として五段以下、詳しい説明もなされており、それなりに理解していたと思っていた。しかし、今日は今まできちんと読んでいなかったことに気づき、非常に衝撃を受けた。(以下段・級位の資格基準伐採)

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師とは?

武道では昔から「良師は何年かかっても探さなければならない」と言われる。前回一流と二流の違いでも書いたが、自らが一流になりたければ、一流の師の行動パターンと思考を盗み取ることが重要である。ここでは、個人的な師匠についての考え方と自分の経験をまとめてみたい。

既に20年以上たつが、1998年にフランクフルトで弓道を再開した時は、周りの人が皆、日置印際派の流れをくむ射法(以下印際射法)で引いており、自分一人が正面打ち起し射法 (以下正面射法) で引いていた。初めは昔とった杵柄で、とにかく巻藁前で繰り返し繰り返しの稽古である程度の弓を引く感覚は戻ってきた矢先、たまたまクラブの人の紹介で、南ドイツで正面射法の先生が講習会へ来るので参加してみればとの誘いがあった。

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一流と二流の違いはどこから来るのか?

人間は、他の動物と違い、思考することにより、現存しない仮想世界や、未来世界を想像することによって、道具、その使用方法、化学技術、文化慣習、言語等を創造してきた。また、そういった思考力のおかげで、人間独特の感情が生まれ、その感情が人間の行動を支配してきたともいえるだろう。この思考力を用いてスポーツ等では、自己暗示(記録を出す、試合に勝つ)が、良い感情(闘争心、やる気を起こさせ、アドレナリン等のホルモンを分泌)を起こし、それによって身体能力高まり、良い結果につながる仕組みは一般的になっている。

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緊張するという感覚

緊張して失敗を繰り返しながら、色々と試行錯誤しながら緊張に向き合ってきた。まだまだ、途中ではあるが、今回は現在の考え方を留めて記載したい。

昔は緊張したり、緊張しなかったり、又は緊張したことによって上手くいったり、全く上手くいかなかったりを繰り返してきた。緊張というのは、周りや他の人のせいでなく、結局は本人の意識の持ち方ではあるが、これをどうゆう風に克服できるのかという課題に取り組んできた。そういった中で「何故、自分は緊張するのか」が分かれば、「どうやったら緊張せずに済むか」という処方箋が出るのではないかと思い、色々と試してみた。例をあげると、

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型=非日常的身体操作=術技

黒田鉄山(第十五代振武館宗家)という武道家が遅早不二(遅い動きでも早い)の説明をしている。要約すると、型として伝えられている術技的身体操作は言葉で言い表すことが出来ないので、その理論を型によって表現していると語っている。また、武道の型には非日常的な物が多く、それを繰り返し行うことによって初めて身体が武術化するとも言っている。反対に日常の筋肉の使い方は武術では邪魔になるともいっている。

ユーチューブ等で黒田鉄山の動きが紹介されているが、その凄さが言葉で表現できないほどである。隙の全く無いところから起こりがなく、軸がぶれず、モニター前で見ているだけでも意を突かれた状態となる。武道の神髄とはこんなものなのかと思わせる身体操作である。その黒田鉄山が語る遅早不二について聞いたとに思わずはっとなった。これは絶対的計測可能なスピードの事を言っているのではなく、①武道の型は見えない(起こりのない)動きの理であること。②非日常的な型(術理)の身体の動きは、反応できない技となる。

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弓道教本について

最近は弓道教本を元に初心者に稽古で解説をおこなっている。教本には現代弓道の大枠が記されており、具体的な事柄については、指導者について修練することが望ましいと書いてある。しかし、内容を具体化すればするほど真理から外れる可能性を含んでいるため、どのくらいの抽象度あるいは具体度で指導するかを考える必要がある。

ここで一つ例として射法八節の第一足踏みを挙げてみたい。

「足踏み」は、弓を射る場合、その基礎となる最初の足の踏み方-足構え-である。矢が正しく的にあたるためには、まず正しい姿勢を作ることが必要で、そのためには正しい足踏みをしなければならない。単なる足開きではない。「足踏み」は、射位(弓を射る位置)で脇正面に向かって立ち両足先を的の中心と一直線上に外八文字に踏み開く動作である。その角度は約60度で、両足先の間隔はおよそ自己の矢束とする。(その後は武者系と礼射系の2つの足踏み方法が記されている)

指導の醍醐味は、如何にして本に書いている基本(大枠)を忠実に守りつつ、自ら体現した経験を分かりやすく初心者に伝授することではないかと考えている。 弓道教本について weiterlesen