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WordPress-Beitrag 220 · Stand 2018-10-04 ここ数年はドイツの全国大会に自身参加し、また審判及び、個人戦での射技の評価を行なっている。また、年に数回地方または中央講習会に講師として呼ばれて指導することも多くなっている。 そういったことで、益々各地で初心者から高段者まで多くの射手を見る機会に恵まれている。 最近は昔から知っている射手であっても、初めて見る射手でも特に「上手い射」だったのか「心に響く射」であったのかを見ることに務めている。この場合の上手い射というは、出来ばえの良かった守りの射で、本人の能力の範囲の射のことである。心に響く射とは、伸るか反るかの瀬戸際での攻めの射で、結果として能力以上あるいは、本人が意識して作れる以上の射が出来た時の事として定義したい。 往往にして、上手い射は減点が少なく総合評価はよくなりやすい、だが技術的に未熟な射であっても、的中の有無に関わらず、心に響く射が見れることを期待している。 心に響く射は上手い、下手を超えた抽象度の高いものと考える。つまり、射技的には未熟な初心者でも心に響く射が出ることがあり、上手な高段者でも、まったく心に響かない射もある。 弓は人に見せるために引いているのではないが、一所懸命で自己の持つ能力以上の射をもってして、見ている人を引きつけ、感動を与えることが出来れば、周りからの評価は「大成功の射」となるであろう。おそらく本人も的中の有無や審査の合否に関わらず満足の射ではないかと思う。こういった射は結果であって目的ではない、つまり魅せる射を目的にすると、見せかけの射になり本末転倒という事になる。あくまで結果としてそうなる事が重要である[…]
現在クラブでの指導方針に迷いがあり、2009年1月4日時点で書いた自分の記事を読んで過去の自分を振り返りながら思った事を書いてみたい。 初心者指導再開までの経緯 2010年より12年間お世話になったフランクフルトの弓道クラブ(Kyudojo Frankfurt e.V.) を去り、2年半ほどデュッセルドルフ近郊の弓道クラブ(Kyudoverein Neandertal e.V.) にお世話になった。この間は近い将来自分のクラブ設立を考えていたためにクラブでの指導は控えていた。2012年秋からは引っ越し後、自宅の改修、庭の整備等に精力を傾け、2013年秋にクラブ設立、2016年秋に手作り道場が完成するまでは、新天地の地固めに精力を注いだ。 2017年に初心者指導を再開するまでの7年間はドイツの地方セミナー、ドイツ中央セミナーで講師として主に3段以上の人を対象に指導は続けていたが、自分の道場での初心者への指導とは当然内容も異なる。 自己修行としての弓の指導 以前は「弓を持ったこともない人には、こうすればとりあえず弓が使えるようになる」を基本として実利的な指導をしていた。しかし現在は「弓を通じて何を教えたいのか?」という命題で指導を試みており、総合的な観点(精神的な面、身体的な面、技術的な面)から各々個人の特徴を生かすように試みている。 しかしながら、過去、現在、未来の自分がそうであるように、自分の弓(精神的、身体的、技術的)への考え方も進化をし続けているという現状を踏まえると、「今の自分が正しいと思って指導していることは確実に正しくない。あるいは理想的ではない。」という結論に到達する。そういった事実に対して確信を持てば持つほど現在の指導方針に対して疑心暗鬼する傾向が強くなった。また、指導中も時々「今の自分信じている事、自分にとって大切なことを初心者へ伝えることは無責任な事ではないだろうか」と自問自答している自分に気づかされる。 そういった葛藤はあるものの、今の自分が出来る精一杯のものを伝え、自分が成長した分、進歩した指導をするしか他にないと思っている。そうすることにより、自分の弓に対する理解を深めたり、弓のレベルを上げるための修行は、自己満足を満たす為のもではなくなり、人により良いものを伝えるために変化しているのに気づく。従って常に自己を高め続けなければならない状況に自分で追いやっていることになってくる。確かに初心者に指導していなかった7年間を振り返ると、様々な理由はあるにせよ、結局は自分の為だけの弓(過渡期であまり弓が引けなかったこともあるが、レベルを維持するだけのため)を引いていたと反省させられる。言い換えると、初心者の鏡としての自分がなかった為に、自己の高まりもなかったという事になる。[…]