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WordPress-Beitrag 458 · Stand 2018-12-17 2018年10月8日、埼玉での連合審査を受審した弟子(現在では自らクラブでの指導者となっている)から合格の朗報が入った。(審査1カ月前に柳水館での集中稽古に参加中の合格者) これで自身の弟子では5人目の5段取得者の誕生となった。もちろん昇段したからと言って、途端に上手になったではなく、本来の5段に匹敵する実力と素質が認められたにすぎないので、今後その期待に応えるように更に厳しい稽古を通して「本物の5段」になってほしい。ドイツでは諸事情があり、国内の2つのトレーナーの資格を習得しなければ、5段以上の審査を受けることが出来ない。従って次の審査までは数年を要するだろうが、その間に6段以上の実力を持つように更なる努力をしてもらいたいと期待している。 自分自身の目標としては、最終的には弟子が自分の段位以上に育ってくれることであるが、本人も常に前進し続けているので、弟子もそれ以上に前進しないと永久にたどり着けないかもしれない。そのくらい切磋琢磨して終わりなき道をお互いに進み続けるのが目標となるかもしれない。もしかすると自分が弓を引けなくなった後(この世にいなくなった時)に自分をしのぐ弟子がでてくるのかもしれない。 そんなことを思いながら今回は全くの私見であるが、5段審査について書いてみたい。 審査統一基準によると「射形・射術・体配共に法に適って射品現われ、精励の功特に認められる者」となっており、四段では出てこない「射品」という文字が5段以上から初めて出てくる。五段・六段・七段の資格基準を見ると、 五段 射形・射術・体配共に法に適って射品現われ、精励の功特に認められる者 六段 射形・射術・体配共に優秀にして射品高く、精錬の功顕著な者 七段[…]
WordPress-Beitrag 496 · Stand 2018-12-17 Am 17./18. November 2018 fand das verbindliche[…]
WordPress-Beitrag 470 · Stand 2018-12-17 2018年11月17日・18日両日に行われたフランクフルトでのトレーナー研修会参加のために、前日16日(金)にフランクフルト入りし、フランクフルト弓道クラブの稽古に参加した。 このクラブは2010年まで12年間在籍していたこともあり、また自分の弟子が今では指導者の一人として頑張っていることから、今でも強いつながりがある。たまたまであるが、稽古開始の挨拶の後、今年4月に東京で行われた昇段審査での合格者へそれぞれ証書が配布された。 もちろんこの合格者(四段1名、参段3名、弐段・初段共に1名)は知っていたものの、実際に本人が証書を受け取る場にいる事が出来き、又その喜びを共有出来て本当に良かった。中には自分が直接指導した人も混じっているが、一部は自分の弟子の弟子であることから、孫の成長を聞いているようで大変うれしかった。(実の娘も年頃であるが、実孫はまだ先になるだろう) ドイツは欧州で弓道人口が一番多い国となっているが(会員約1250名)高段者、特に称号取得者がなんと全体の0.6%(7名)と大変低い。参考までにフランスでは、称号者が22名在籍し、全体の3%、イタリアは8名で全体の4%、スイスは6名で全体の4%、イギリスは6名で全体の5%、オランダ3名で全体の4%となっている。(EKF-Members-Statistics-2018 ) ドイツでは昇段審査に元々参加しない人も多いため、この統計が国の弓道レベルを直接示しているとは言えないものの、個人的に思うのは、審査・セミナーに参加せず、現在弓界最高位の先生方の指導を受ける機会なしに、井の中の蛙状態で弓を引き続けるのは、長年引いてもなかなか上達が難しいのではないか?自分の見えるレベルが世界のレベルではないのに気づくことも大切ではないだろうか?そのように思う。確かに弓道は昇段が目的ではなく、また人によっては上達そのものが目的でないかもしれない。しかし将来のドイツでの弓道界の事を考えると、次の時代へより良いものを残すために、広い視野をもって、自己を高めていく努力をする必要があると自分は思っている。多くの若い人がこれに賛同してくれることを望む。 最後に今年新たに合格した皆んさん、あたらめて合格おめでとうございます。今後も更に上を目指し、良い弓を引き、自分の先生を超えるように頑張ってください。
step by step, how we constructed the dojo floor. after build[…]
WordPress-Beitrag 398 · Stand 2018-09-19 ドイツ弓道協会(DkzyB)の競技規則24条項目に、競技における服装の規定があり、それによれば参加者は白い稽古着、黒の袴、白の足袋の着用がすべての競技で義務付けられている。2018年9月1日に参加したNRW州の遠的大会もこの競技規定が適用されていたが為、足袋を履いての参加でなければならなかったが、今回は裸足に雪駄で参加した。 天気は良かったものの、室外での競技であったこと(道場の床をあることを想定していない)、足袋が芝や草とこすれて付いた汚れは取れない経験をしているからである。又、履物の規定がないので、通常の靴を履いた場合、足袋では履けないケースもあるだろう。競技規定の見直しまたは、大会審判の裁量でというのが本来は望ましいだろう。 今回のテーマは競技・審査・通常の稽古に関係なく、射手の心構えとしての備えについて述べてみたい。一射に全てを尽くすという意味においては、徒然草にも書かれているように「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて…」や、一射絶命と言葉に代表されるように、備え、つまり次の矢を考えることはいけないことだと言われ、修行道としての弓道の考え方は、確かにそうではある。 しかし競技に参加した場合、仮に弦が上がったり、弓に損傷があって、弦の張替えや替弓との交換が必要となったときは、競技の進行を妨げないように、すぐに対応できるように準備しておくことは射手のマナーであると考える。室内での近的競技では通常替弦、替弓を預ける場所と、それを担当する人が控えている。今回は小さい大会であったこともあり、審判も参加者と一緒に弓を引いていたため、事実上替弦・替弓を担当する人なし。しかも一立ち4本であったので、私の場合は、替弓を射位に近い所に控え、更に替弓の替弦を腰に巻いて参加した。 最近は合成弓の使用が増え、弦の寿命が伸びたことにより、確かに大会・審査では弦切れがほとんど見られなくなった。しかし武士道的に言うならば、「生き延びるためには、弓が壊れようが、弦が切れようがまだ対応できる」体制を整えておく心構えが大切ではないかと思う。 私の場合は幸か不幸か、道場での稽古開始時に行う見本の射や、よその道場で引く場合や、通常の大会等で思わぬ「失」に多く遭遇している。失というものは狙って再現できず突発的に起こるものであるが、想像を超える失を幾つも経験したことにより、精神的、肉体的、物質的な備えは自然と身に付いたと思う。 ここで一例をあげると、離れで右側の眼鏡のレンズが床に落ちた。引き分けている最終に右手にさしている「かけ」の紐が切れて指先だけで弦を支えた状態になってしまった。会の状態(弓を引き絞った)で弓の下に掛けている弦がはずれ、弓が突然空中を舞って的近くまで飛んで行った。矢番えで鉄製の矢尻の先が折れて引けなくなってしまった等々。 いわゆる「普通」の失である弦切れは、麻弦を常時使用していた時は毎週のように経験したので、いつ起こっても「想定内」といった態度で対応できるようになった。 なにが起こっても動じない心とは、やはり様々な想定外の経験を多く積む事に加え、それに対する心・体・道具の備えがきちんと出来ていることから起こるのではないかと考える。これが武道を習得する中で第三者からみて「鈍くなる」事が必要ではないかと考える。
WordPress-Beitrag 359 · Stand 2018-09-19 (大会でのBMI指数34,49による矢渡し)2018年7月7日(土)にクラブ設立5周年記念としてBMI大会が開催されました。通常BMIというとBody Mass Index(体格指数)として体重(㎏)を2回身長(m)で割って算出されます。一般に18.5から25までは標準、25から30までは肥満度1、30から35までは肥満度2とされています。今回はBow Mass Index(弓格指数)として、弓(Kg)と矢(g)の重さを足したものを身長(m)で割り、男性は指数1を女性は男性よりも筋肉の量が少ないのでこれを補正するために15%(指数1.15)をかけて算出しました。このBMI指数は、体の小さい人が強い弓重い矢を使用するほど指数が増え、反対に体の大きい人が弱い弓と軽い矢を使用すると指数が減ります。 弓道はやはり武道ですから、その人なりに可能な最大の矢の貫通力(弓の力、矢のスピード、矢の重さ)を目指すべきと考えるからです。たまたまですが、参加者の平均は女性で26.3、男性は26とほぼ横這いとなりました。参加者33名の内、14名が標準で、15名が肥満度1、4名が肥満度2でした。最低では19.65で最大は34.49でした。33名参加で、5つのウェートクラス(重量階級)を設け、それぞれの階級別での競射となり、各階級3位まで入賞とし、最後に全階級のチャンピオン決定戦を行いました。上の階級(ヘビーウェート)は6名中5名が予選通過、射詰も2回と他の階級を圧倒した感がありました。[…]
WordPress-Beitrag 211 · Stand 2018-09-07 今回は、数年ある段位に挑戦して合格できない弟子に向けて「弓の志」についての言葉を贈りたく書いてみた。 本人は弓歴10年を超え、今では数年程クラブで初心者の指導をしている。ドイツの大会でも個人、団体と好成績を収めており、試合の結果や、的に当てる射術、また体配共にレベル的には到達していると本人は思っており、何故合格できないかわからず迷いながら稽古を続けている。 話を聞いてみると、「離れが直ではない為に不合格になった」らしい。そうすると稽古の全目標が「審査に合格するため」に、離れを直にするための努力をするという。 しかし、本当にそうであろうか?見た目きれいに素直に離れた様に見せて、本当に審査に合格できるであろうか?見る人が見れば「審査に合格するために離れを直に整えました」と訴えかけるような射を見せつけられてどう思うだろうか?自分も昔はそうであったが、まさか審査員はそういった心理状態まで見透す事は出来ないだろうと信じていいたが、実は丸見えだということが分かり始めてきた。 もちろん真意は分からず、憶測でしかないが、なぜか不自然で偽りの射としか感じられない。まとめよう、よく見せようといった心持があからさまになっている。それだったら中て気満々で全身全霊を尽くした末の的中のほうが遥かにマシである。(審査では不合格となるかもしれないが) 私的には、審査に関わらず、見る人が見れば射を通してその人の「弓に対する志」が見えていると思う。正しい志に基づいた稽古はたとえ数年間審査に合格できなくても、自己の信念をまげず必ず壁を乗り越えることができるだろう。またそういった正しい志があれば、たとえレベルが足りなくとも少なくとも「いい射だった、大変惜しかった」という感想になるだろう。 古来中国では人間の人格を図るために弓が用いられたと言われるが、正に射は心の鏡である。果たして自分の鏡は正しきを映しているだろうか?と問いながら次の一射へ向かう。
WordPress-Beitrag 220 · Stand 2018-10-04 ここ数年はドイツの全国大会に自身参加し、また審判及び、個人戦での射技の評価を行なっている。また、年に数回地方または中央講習会に講師として呼ばれて指導することも多くなっている。 そういったことで、益々各地で初心者から高段者まで多くの射手を見る機会に恵まれている。 最近は昔から知っている射手であっても、初めて見る射手でも特に「上手い射」だったのか「心に響く射」であったのかを見ることに務めている。この場合の上手い射というは、出来ばえの良かった守りの射で、本人の能力の範囲の射のことである。心に響く射とは、伸るか反るかの瀬戸際での攻めの射で、結果として能力以上あるいは、本人が意識して作れる以上の射が出来た時の事として定義したい。 往往にして、上手い射は減点が少なく総合評価はよくなりやすい、だが技術的に未熟な射であっても、的中の有無に関わらず、心に響く射が見れることを期待している。 心に響く射は上手い、下手を超えた抽象度の高いものと考える。つまり、射技的には未熟な初心者でも心に響く射が出ることがあり、上手な高段者でも、まったく心に響かない射もある。 弓は人に見せるために引いているのではないが、一所懸命で自己の持つ能力以上の射をもってして、見ている人を引きつけ、感動を与えることが出来れば、周りからの評価は「大成功の射」となるであろう。おそらく本人も的中の有無や審査の合否に関わらず満足の射ではないかと思う。こういった射は結果であって目的ではない、つまり魅せる射を目的にすると、見せかけの射になり本末転倒という事になる。あくまで結果としてそうなる事が重要である[…]
現在クラブでの指導方針に迷いがあり、2009年1月4日時点で書いた自分の記事を読んで過去の自分を振り返りながら思った事を書いてみたい。 初心者指導再開までの経緯 2010年より12年間お世話になったフランクフルトの弓道クラブ(Kyudojo Frankfurt e.V.) を去り、2年半ほどデュッセルドルフ近郊の弓道クラブ(Kyudoverein Neandertal e.V.) にお世話になった。この間は近い将来自分のクラブ設立を考えていたためにクラブでの指導は控えていた。2012年秋からは引っ越し後、自宅の改修、庭の整備等に精力を傾け、2013年秋にクラブ設立、2016年秋に手作り道場が完成するまでは、新天地の地固めに精力を注いだ。 2017年に初心者指導を再開するまでの7年間はドイツの地方セミナー、ドイツ中央セミナーで講師として主に3段以上の人を対象に指導は続けていたが、自分の道場での初心者への指導とは当然内容も異なる。 自己修行としての弓の指導 以前は「弓を持ったこともない人には、こうすればとりあえず弓が使えるようになる」を基本として実利的な指導をしていた。しかし現在は「弓を通じて何を教えたいのか?」という命題で指導を試みており、総合的な観点(精神的な面、身体的な面、技術的な面)から各々個人の特徴を生かすように試みている。 しかしながら、過去、現在、未来の自分がそうであるように、自分の弓(精神的、身体的、技術的)への考え方も進化をし続けているという現状を踏まえると、「今の自分が正しいと思って指導していることは確実に正しくない。あるいは理想的ではない。」という結論に到達する。そういった事実に対して確信を持てば持つほど現在の指導方針に対して疑心暗鬼する傾向が強くなった。また、指導中も時々「今の自分信じている事、自分にとって大切なことを初心者へ伝えることは無責任な事ではないだろうか」と自問自答している自分に気づかされる。 そういった葛藤はあるものの、今の自分が出来る精一杯のものを伝え、自分が成長した分、進歩した指導をするしか他にないと思っている。そうすることにより、自分の弓に対する理解を深めたり、弓のレベルを上げるための修行は、自己満足を満たす為のもではなくなり、人により良いものを伝えるために変化しているのに気づく。従って常に自己を高め続けなければならない状況に自分で追いやっていることになってくる。確かに初心者に指導していなかった7年間を振り返ると、様々な理由はあるにせよ、結局は自分の為だけの弓(過渡期であまり弓が引けなかったこともあるが、レベルを維持するだけのため)を引いていたと反省させられる。言い換えると、初心者の鏡としての自分がなかった為に、自己の高まりもなかったという事になる。[…]
Bedachung für Azuchi wie vorheriger Beitrag gibt es sämtliche Bedachungsmöglichkeiten für[…]