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第七条 恰好の事

ENTWURF · WordPress-Beitrag 908 · Stand 2019-04-11  別の例をあげると、日置流弓目録の第七条恰好の事には、6分の弓には6匁の矢、7分の弓には7匁、8分の弓には8匁が兼ね合いとしていいと記載されていて、6分(2尺7分5寸=83㎝程度引いた時に22-23㎏くらい)に6匁(22.5g)の例のみを取り上げて、其の比率(矢1gにつき、弓の強さ1000g、即ち1対1000)のみが独り歩きしている。講習会などで、弓と矢の兼ね合いについて質問すると、必ず数人がこの1対1000の比率を持ち出し説明してくる。本人は、書物を読んで勉強したつもりだと思うが、逆にでは15㎏の弓には15gの矢が合うのですか?と質問すると、決まって「現代では無理だが、昔の射手は稽古でとことん軽い矢が使えるように稽古したから」と、まるでそういった伝説が本当にあったかのように、間違った結果に辿り着く為の、間違った理論を後付けで説明してくる。小説に書いてあるならまだしも、少なくとも目録を説明に使うのであれば、きちんと目録に書いてある事をそのまま覚えてほしい。更に、当時の日本人の矢束が短く、使用した矢も短いために、相対的箆張りは強くなる位の注釈は必要であろう。また、枯れた弓、新弓でも条件が違う。

身体的知恵について

WordPress-Beitrag 866 · Stand 2019-04-11  一般的に弓道の研究をしているという人に限って、多くの文献、弓書を読み漁っている人が多いが、果たして実際に弓を引いている人、弓道の指導者にとっては、どのくらいが有効なのであろうか?(当然、学問として研究されている人は、目的が違うために除く) 知識を増やすという意味においては、読まないよりは読んだほうが良いであろうし、工夫稽古として弓書からヒントを得る事は良いと考える。但し、何事もバランスがあり、実践そこそこで知識が先行すると、空想上での理論が先に出来上がってしまい、実際に行動する時に、その理論の枠内でしか行動できないという弊害がでてくる。通常は、経験を伴わない知識が、多く蓄積されればされるほど、具体的な固定観念が空想上で確立してしまい、行動を起こしたときに、この具体的固定観念の外にある経験は、在り得ないものとして整理され、体験しても認識が出来ない場合が多い。或いはメンタルブロック(心理的抑制)が起こって、体験そのものが不可能となる場合もある。更に症状が進むと、体験する前に、空想上の固定観念としてある理論を、正当化するために行動を起こすために、既にそれ以外の答えは用意されていない状況となる。 例をあげると、中仕掛け(矢の筈がかかる部分と、ユガケの弦道が引っかかる部分の補強)があり、本来の目的は ①離れるまでに、不意に筈が弦から離脱しないよう ②離れが引っかからずにスムーズに出るようにするためである。上記の2つの目的を達成するためには、必ずしも本に記載されている方法が最良とは言えない。これは筈の仕掛けにもよるし、ユガケの帽子の向き(腰と控えが和らい場合は、帽子が脇正面に向く)や、弦道の形状(直線的、曲線的或いは、山なりにそれぞれ一文字、筋交い)によっても、理想の中仕掛けの太さは違ってくる。又、当然の事ならがら離れの方法も千差万別であろう。 これらの本来の目的を考えないで、単に、本で見たからとか、初めにそう習ったからという理由で均一的に中仕掛けを作っているのは、それが正しいという固定観念の枠組みが出来上がっているので、それ以外の正しさを考える事も、試すことも無くなってしまう。 別の例をあげると、日置流弓目録の第七条恰好の事には、6分の弓には6匁の矢、7分の弓には7匁、8分の弓には8匁が兼ね合いとしていいと記載されていて、6分(2尺7分5寸=83㎝程度引いた時に22-23㎏くらい)に6匁(22.5g)の例のみを取り上げて、其の比率(矢1gにつき、弓の強さ1000g、即ち1対1000)のみが独り歩きしている。講習会などで、弓と矢の兼ね合いについて質問すると、必ず数人がこの1対1000の比率を持ち出し説明してくる。本人は、書物を読んで勉強したことを得意に思っているのだが、逆に「では15㎏の弓には15gの矢が合うのですか?」と質問すると、決まって「現代では無理だが、昔の射手は稽古でとことん軽い矢が使えるように稽古したから」と、まるでそういった伝説が本当にあったかのように、間違った結果に辿り着く為の、間違った理論を後付けで説明してくる。小説に書いてあるならまだしも、少なくとも目録を説明に使うのであれば、きちんと目録に書いてある事をそのまま覚えてほしい。更に、当時の日本人の矢束が短く、使用した矢も短いために、相対的箆張りは強い位の注釈は必要であろう。 そういった理論から入るのとは反対に、色々な経験を知識なしに積み、後で弓書を読んで、なるほど、確かにそうなると納得することは多いだろう。又、弓書を先に読んで言葉だけで分かったような気になっていたものが、経験を積んで同じ文書を読むと、これはそういった意味だったかのかと思う事もあるだろう。特に武道においては、経験に基づいた体系を後で理論づけしたものであるので、自己の経験則に基づいた多くの知識が積み重なるにしたがって、武道(物事)の本質、或いはその関連性が明らかになってくる。数学で例えるなら、多くの経験によって一種の方程式が出来上がり、任意的な数字を用いても、答えを導き出せるのと同じである。逆に法則も分からず、方程式もない状態では、一つ一つの例を頭で覚えているだけにすぎず、少しでも前提条件が変わると、全く対応できない事になる。[…]

弓道教本について

WordPress-Beitrag 455 · Stand 2019-04-05 最近は弓道教本を元に初心者に稽古で解説をおこなっている。教本には現代弓道の大枠が記されており、具体的な事柄については、指導者について修練することが望ましいと書いてある。しかし、内容を具体化すればするほど真理から外れる可能性を含んでいるため、どのくらいの抽象度あるいは具体度で指導するかを考える必要がある。 ここで一つ例として射法八節の第一足踏みを挙げてみたい。 「足踏み」は、弓を射る場合、その基礎となる最初の足の踏み方-足構え-である。矢が正しく的にあたるためには、まず正しい姿勢を作ることが必要で、そのためには正しい足踏みをしなければならない。単なる足開きではない。「足踏み」は、射位(弓を射る位置)で脇正面に向かって立ち両足先を的の中心と一直線上に外八文字に踏み開く動作である。その角度は約60度で、両足先の間隔はおよそ自己の矢束とする。(その後は武者系と礼射系の2つの足踏み方法が記されている) 指導の醍醐味は、如何にして本に書いている基本(大枠)を忠実に守りつつ、自ら体現した経験を分かりやすく初心者に伝授することではないかと考えている。 文章的には①両足先の延長に的が来るように、②両足先は外八文字に約60度の角度をなし、③両足先の間隔は約自己の矢束に踏み開くとなっており、これは指導者がいなくても、文章を読むだけで外から見た形(フォーム)は理解できるだろう。しかし一方では、「矢が正しく的にあたるためには・・・正しい足踏みをしなければならない。」とあり、矢が正しく中るとはどういうことか?なぜ、こういった足踏み方法が正しいといえるのか?といった理が書かれていない。 日本の武道の形も一般的には「何故」そうするのか?という理は説明されておらず、その理は稽古で繰り返し行うことによって体現できるようなるという考えの元で構成されている。従って、稽古の習得が進むほど、そのレベルに応じた理は分かってくるが、先人のレベルに達しない限り、形の持つ本来の理は理解できないというのが、答えになるだろう。これは弓道に限らず、武道を長年習得したものには理解できることだろう。[…]

一流と二流の違いはどこから来るのか?

WordPress-Beitrag 772 · Stand 2019-03-01 人間は、他の動物と違い、思考することにより、現存しない仮想世界や、未来世界を想像することによって、道具、その使用方法、化学技術、文化慣習、言語等を創造してきた。また、そういった思考力のおかげで、人間独特の感情が生まれ、その感情が人間の行動を支配してきたともいえるだろう。この思考力を用いてスポーツ等では、自己暗示(記録を出す、試合に勝つ)が、良い感情(闘争心、やる気を起こさせ、アドレナリン等のホルモンを分泌)を起こし、それによって身体能力高まり、良い結果につながる仕組みは一般的になっている。 「その化学があなたを変える」( リチャードワイズマン著)という本には、その真逆の事が書かれている。ここでは「アズ・イフの法則」 と言われている。これは、「そうなりたいのであれば、そうであるかの如く行動すればよい」という事で、例えば 「既に幸せであるかのように行動すれば、幸せになる」 という原理である。例をあげると、何の感情もない状態で、顔だけニコニコし続けると、何のきっかけが無くても、そのうちに本当に幸せで楽しいように感じられる。(是非試してみてください)普通は、何か原因があって楽しいと思う感情が、笑うという行動を作ると考えるが、笑うという行動によって、楽しいと感じているという仕組みが正しいということらしい。[…]

緊張するという感覚

WordPress-Beitrag 701 · Stand 2019-03-01 緊張して失敗を繰り返しながら、色々と試行錯誤しながら緊張に向き合ってきた。まだまだ、途中ではあるが、今回は現在の考え方を留めて記載したい。 昔は緊張したり、緊張しなかったり、又は緊張したことによって上手くいったり、全く上手くいかなかったりを繰り返してきた。緊張というのは、周りや他の人のせいでなく、結局は本人の意識の持ち方ではあるが、これをどうゆう風に克服できるのかという課題に取り組んできた。そういった中で「何故、自分は緊張するのか」が分かれば、「どうやったら緊張せずに済むか」という処方箋が出るのではないかと思い、色々と試してみた。例をあげると、 ①場慣れしていない(いわゆる通常とは異なる状況下で、場に飲まれてしまう)のを補うために、多くの模擬審査や、模擬試合を体験し、経験を積むことにより不安を解消する。 ②自信が十分でない(自身で力量の不足を感じる時)のを補うために、稽古量を増やし、出来る事はすべてやったと思うくらいの状態を作る。 ③意識過剰(持っている以上の力を出そうと努力する。又は必要以上に見せる射を行う。)を補うため、自己の力量をしっかり評価し、それ以上は稽古で、それ以内は晴れの場でという考え方をする。 このような稽古を進めていくうちに、自己暗示(これだけ場慣れしたからとか、これだけ稽古したからとか、自分のレベルが分かるから)の意識を働かせ、脳が経験則に従って、仮想未来に起こる状況がある程度想定される状態を作ることが出来れば、意識的に緊張しない状態にできるということが分かった。又、緊張して失敗する原因は、主には心身の凝りから来ることも分かってきた。無意識下で通常以上に精神的、あるいは身体的に凝りが出来ると、イメージ通りの身体操作が出来なくなってしまう。そういった事から、通常の稽古でも、晴れの場でも、常に無駄な凝りを除くことに努力をすることになった。これは、「何故緊張するとうまくいかないことが多いのか」という一つの回答が導き出されたとも言えるだろう。[…]

Kyudo Urlaub in Rom

WordPress-Beitrag 676 · Stand 2019-03-01 Samstag um 5 Uhr war ich[…]

型=非日常的身体操作=術技

WordPress-Beitrag 726 · Stand 2019-03-01  黒田鉄山(第十五代振武館宗家)という武道家が遅早不二(遅い動きでも早い)の説明をしている。要約すると、型として伝えられている術技的身体操作は言葉で言い表すことが出来ないので、その理論を型によって表現していると語っている。また、武道の型には非日常的な物が多く、それを繰り返し行うことによって初めて身体が武術化するとも言っている。反対に日常の筋肉の使い方は武術では邪魔になるともいっている。 ユーチューブ等で黒田鉄山の動きが紹介されているが、その凄さが言葉で表現できないほどである。隙の全く無いところから起こりがなく、軸がぶれず、モニター前で見ているだけでも意を突かれた状態となる。武道の神髄とはこんなものなのかと思わせる身体操作である。その黒田鉄山が語る遅早不二について聞いたとに思わずはっとなった。これは絶対的計測可能なスピードの事を言っているのではなく、①武道の型は見えない(起こりのない)動きの理であること。②非日常的な型(術理)の身体の動きは、反応できない技となる。 今まで基本体、射法八節の稽古の中で漠然と型について何か少しづつ分かり始めて来てはいたが、今改めて、型の稽古とは何か、型が何を教えてくれるのかが見えてきた気がする。今までは最終的には「自然体」が理想という概念があり、型を繰り返し稽古することにより、自然の理が理解でき、身体レベルで自然とその環境で最適な動きができるようになるのが良いことであると考えていたが、それは、もしかしたら外から見た第三者がそうゆう風に描写するだけではないかとも考えられる。 これは、弓を引いている本人の心境と、それを見ている人の違いと同じである。射手を見ている人は、動作が全く無駄のない自然な動きで、離れも全く作為のない自然の離れであったと思うが、実際に弓を引いている射手は、黒田先生の言葉を借りると、内部的には、一定方向へ一定の速度で動き続け、(即ち外から見たら不動)術技的身体操作(非日常的な術として)をもって、相手(見ている人)が見えない内部の動き、反応できない離れを成し遂げる事ではないかと考える。そうするといわゆる意を突かれた離れであるので、実際の離れの速度に関係なく、外から観察している人間にとっては「神速」であったと感じるだろう。 型とは、非日常的身体操作により形成される術技として理論であり、この理論は全て型に包括されているが、具体的に言語で語る体形とされていいない。その理論は身体操作によってのみ体現できるものとなっている。従って、いわゆる「口伝」というものは、この型に包括されている術理によって何か可能であるかを伝えたものであったのではないだろうか?であるとすると、黒田鉄山先生の言葉は正に武術一般の型の考え方に対する「口伝」ともいえる。今回はこの先生の一言で道が明確になったような気がする。次の一射からは新たな挑戦が始まるかと思うと今からワクワクする。

新年の抱負

WordPress-Beitrag 635 · Stand 2019-02-14 皆様、新年あけましておめでとうございます。 2019年度の新年射会は例年のごとく、1月1日午後1時より開催されました。今回は17名の参加があり、多くの人と一緒に新年の抱負を込めて初矢を引くことが出来ました。 個人的な新年の抱負は表現が困難ですが、一言でまとめると「簡素に引き、遠くで響かせる」です。この表現はあくまで第三者が居合わせたときに、自己の射がその空間でどう表現できるかといった課題に対しての答えとなります。従って、これをどう表現するかについては多くの異なったアプローチが考えられます。今回は、今現在の自分がまだ体現できていないものに対してのアプローチ方法の考え方を記載していますので、実際に出来た後の結果ではありません。しかしながら今まで取得したことを踏まえて、とりあえず今現在自分が正しいと思っている方向性ですので、習得が進めば「簡素に引き、遠くで響かせる」事にはならないとしても、「今思いつく事ができない良い結果」にたどり着けると確信しています。少しでも皆さんの工夫稽古に役に立てればと思い、まとめてみます。 簡素に引くと言う事 先ず、「簡素に引く」ことですが、これは外(第三者)から見て無理・無駄・隙のない状態と考えます。一方で内(本人)での心身の働きを観ると、必要な力が必要に応じて必要な箇所に自然に働くように、全神経と五感を最大に働かせている状態と考えます。通常は内部の各センサーを最大に働かせるように故意的に行うと、目付が厳しくなったり、内部エネルギーの大量消費を補うために呼吸が激しく粗くなったり、内部活動(感情や脳の働きを含めた)の活発度に応じて場にもその気配が伝わってしまいます。気合を含めた気配がその場に広がると、確かに見どころがあり、見るものを引きつける引力も強くなると思います。これは、審査でもよい結果に結びつくものと思います。しかし、武道的あるいは、武道を通して何を学ぶことが出来るか?という問いについて今現在考えている事は、その逆ではないかと思っています。技を習得することにより、技が見えなくなり、心身を鍛錬することにより、周りと一体化し隙も気配もなくす事ができるそのような結果となるように工夫するのが武道的稽古ではないかと考えています。これが弓を引かずとも正鵠を得る事ではないか?人を傷つけることなく、人と戦うことなく勝利する秘訣ではないか?そのように考えています。 今現在試みていることは、如何にして身体がその場を掌握し、それに応じで(頭や感情を介することなく)身体が行動できるかであります。そうすることによって気配を消すことができ、まさにその場の一部となることが出来るのではないかと思います。それにより、どんな状態下または、状況の変化(周辺の環境、道具)があっても身体が最適な行動を知り、適切な状況判断が身体レベルで可能となると思います。ようは故意的に意識を用いずに無意識下で行うことと考えます。言い換えると、意を用いずに肝を用いる。あるいは、無意で有為をなすことと表現できるかもしれません。[…]

Q&A vom Landeslehrgang in Berlin 2018

WordPress-Beitrag 527 · Stand 2019-01-03 Schon 3. Mal durfte ich in[…]

人類の発明や技術革新に反比例する身体能力

WordPress-Beitrag 571 · Stand 2018-12-21 人類の歴史は、発明や技術革新により人類が少しでも豊かになるためにひたすら行われてきた。これは何も最近の事ではなく、大昔には石器(石を加工して武器、工具に使用)や土器(土を焼いて食器や装飾に使用)の発明、その後は、鉄が発明され農耕が飛躍的に発達したり、蒸気機関の発明により産業革命が進んだ。また生活様式も電気・水道が整備され、電化製品で満ち溢れるようになり、また、インターネット、スマートフォン等で情報量が飛躍的に増加し、情報で溢れる世の中になった。 このような人類の発明と技術革新がもたらしたものはなんであったのであろうか?医療の発達により乳児の死亡率の減少や、病気の治療技術の向上により平均寿命は伸びてきた。電力の導入により体を駆使する仕事が減り、水洗された水を使うことにより日ごろの健康管理状態も向上している。また、航空技術の発達により、地球の反対側からも翌日に人・物の移動が可能となり、通信技術の発展により、情報は世界中瞬時に伝わるようになった。 このように見てみると、初めは人類が健康で、安全に暮らせる基盤が作られ、その後は便利(楽)に生活できるものが続々と出てきているように感じられる。個人的には、この便利さや、快適で楽な発明や技術革新は実は人類の本来もっている能力をどんどんと退化させているのではないかと思っている。特に近年では全くの自然界で生き延びることの出来る人間は、ほんのわずかに限られているだろう。時代と共に食料確保が保証されるようになり、体格の向上に伴って、体力も向上してきたが、最近は体力が低下してきているというデーターが多く出ている。また、数字で計測できる体力の他、数字では計測できない身体能力の低下については著しいものがあると考える。 この身体能力とは、人間の先天的な五感( 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚 )に加え、後天的に形成される空間感覚(平衡感覚、位置感覚、周辺感覚)を含んだ総合的なものであると考える。これ以下は自己解釈であるが、身体の訓練によって、自己の空間内での位置の把握、空間内での身体の均衡、空間の温度、湿度、気圧を含めた周辺の変化、気配とよばれる空間内での振動や波動等を感じ取る身体全体の感覚と言えるのではないかと思っている。[…]