何故弓の構造は16世紀頃から変化がないのか?

弓の構造は丸木弓から始まり、竹と木の合成が 平安時代頃から行われるようになったらしい。現在の弓胎(ひご)弓の構造は戦国時代末期16世紀の終わりごろに完成されたと言われている。では、何故和弓はそれから5世紀も立っているのに形や構造に変化がないのであろうか? この問題について私的な考えを述べてみたい。

鉄砲の伝来

先ず、この 弓胎 弓が完成されたとのほぼ同じ時期に鉄砲が種子島に鉄砲が伝わっっている。(1543年)初めは性能が悪く又弓に比べて速射が出来なかったために、戦場では戦国時代末期までは戦闘で弓が活躍する場面が多くあったと考えられる。また弓の威力も 弓胎 の構造が完成したおかげで威力も増大された。これは正に鉄砲伝来による切磋琢磨効果ともいえるだろう。江戸時代に入ってからは鉄砲も改良され大量生産されるようになり、結果として開国の1860年くらいまでは国内で大きな戦争がなかったのだが、仮に戦争が起こった場合は武器としては鉄砲が弓にとって代わられていたであろう。

一方弓よりも普及していた刀についても南北朝時代、戦国時代までは古刀と呼ばれており、実践向きで2尺(60㎝程度)の片手用の刀が多く作成され、鉄砲伝来により鎧の重量が増えてからは両手で操作する3尺(90㎝)で巾の広い新刀が作られるようになった。江戸末期でも戦国時代の地金で刀を作ろうとする試みが行われたようだが、現代でも解明できないと言われている。従って、刀においても実践用の最高水準は戦国時代末期、鉄砲が戦場で使われる以前のものであるようである。

やはり武器の開発というのは戦闘が繰り返され、創意工夫によって改良されるのであるから、江戸期に平和な時代が続き、開国後は鉄砲等の近代武器の発達により、古来武士の武器の発展は16世紀末で終わったとの見方がある。

形としての身体操作術技

第二次大戦後に体育と教育という名目で武道が新たに奨励され、試合等のスポーツ的面も持ちながら、洋弓のように道具が飛躍的に改良され、精度を増すような方向へは進まなかった。なぜか?自分なりの考えを述べると、威力(矢勢いや貫通力)の面で言えば、和弓は洋弓に比べても引けを取らない。或いは捻りを加え矢を長く推すことの出来る手の内の働き(フォロースルー)等の技術が作用し、殺傷能力の面で見れば、洋弓を凌ぐとも考える。ただ的中精度については、和弓は洋弓のレベルにはたどり着けない。なぜなら、洋弓は人間の弓を引く腕力と集中力を要するが、和弓は威力こそ大だが、弓そのものが中るように出来ていない為に人間の術技すなわち身体能力向上が的中率を左右するように出来ているからであると考える。よって、昔の弓を用いて稽古を行う事は、身体能力の向上を促す効果があり、現代では失われてしまった体の使い方を習得することができる。弓道では更に体配とよばれる身体操作方法があり、これは武芸とよばれる武士の身体操作の集大成である能に通じるともいわれている。

今では自分勝手ではあるが、当時(或いは現代でも)最高の威力を持った和弓と、当時世界最高の身体能力を持った武士の術技を学んでいると思いながら稽古を続けている。