日本からの朗報(5段審査について)

2018年10月8日、埼玉での連合審査を受審した弟子(現在では自らクラブでの指導者となっている)から合格の朗報が入った。(審査1カ月前に柳水館での集中稽古に参加中の合格者)

これで自身の弟子では5人目の5段取得者の誕生となった。もちろん昇段したからと言って、途端に上手になったではなく、本来の5段に匹敵する実力と素質が認められたにすぎないので、今後その期待に応えるように更に厳しい稽古を通して「本物の5段」になってほしい。ドイツでは諸事情があり、国内の2つのトレーナーの資格を習得しなければ、5段以上の審査を受けることが出来ない。従って次の審査までは数年を要するだろうが、その間に6段以上の実力を持つように更なる努力をしてもらいたいと期待している。

自分自身の目標としては、最終的には弟子が自分の段位以上に育ってくれることであるが、本人も常に前進し続けているので、弟子もそれ以上に前進しないと永久にたどり着けないかもしれない。そのくらい切磋琢磨して終わりなき道をお互いに進み続けるのが目標となるかもしれない。もしかすると自分が弓を引けなくなった後(この世にいなくなった時)に自分をしのぐ弟子がでてくるのかもしれない。

そんなことを思いながら今回は全くの私見であるが、5段審査について書いてみたい。

審査統一基準によると「射形・射術・体配共に法に適って射品現われ、精励の功特に認められる者」となっており、四段では出てこない「射品」という文字が5段以上から初めて出てくる。五段・六段・七段の資格基準を見ると、

五段 射形・射術・体配共に法に適って射品現われ、精励の功特に認められる
六段 射形・射術・体配共に優秀にして射品高く、精錬の功な者
七段 射形・射術・体配自から備わり射品高く、錬達の域に達した者

体配については別途、「規矩に適った起居進退身につき、落ち着きある容儀、態度。和服着用、肌脱ぎ又は襷さばき(坐射)の実施。」となっており、射術については別途「基本体型の堅持。縦線を軸とした引き分け。充実した会。詰合い・伸合い。気合いの発動による鋭い離れ、弦音、残身、弓倒し。体配と相俟って射法、射技の総体に現れる品位と格調。」となっている。

これらの表現は非常に抽象的であるがために、審査員自身の審査眼により判断されるウエートが高いのであろう。
全くの私見ではあるが、①射品の「現れ」と ②精励の功、特に「認められる」の二つから察すると、①弓道の稽古が日常生活にもよい影響を与え、「品が見受けられる」 ②正しい稽古の繰り返しにより、射術も相応に「正しい方法に進んでいる傾向」が見られると訳すことが出来るのではないだろうか?
四段まではしっかりと射術の基本を学び、的中を得、体配の習得により、とりあえずそつなく出来るレベルから、一気に「それが正射(の方向)」であるのか、「日常へよい影響」がでているか(品があるか)が考察されると言えるのではないだろうか?

このようにみると、五段以上進むためには、実際に既にそのレベル以上の人(高段者)の射を見る事によって方向性を探るのが一番良いと思う。また同時に自分でも「何が正射であるか?」「射品とは何か?」を常に考えながら弓を引いていく必要もあると考える。やはり五段以上は、将来の弓界の見本としての素質があると認められた人に与えられる段位であると想像されるので、単に見た目ではなく、場に醸し出される雰囲気全体が評価の対象になると考える。

これらの「方向性」と「雰囲気」を一手行射で判断する審査眼も並大抵でないだろう。自分の段位が上がれば上がるほど、その審査委員のレベルの高さに驚嘆を覚える。