人類の発明や技術革新に反比例する身体能力

人類の歴史は、発明や技術革新により人類が少しでも豊かになるためにひたすら行われてきた。これは何も最近の事ではなく、大昔には石器(石を加工して武器、工具に使用)や土器(土を焼いて食器や装飾に使用)の発明、その後は、鉄が発明され農耕が飛躍的に発達したり、蒸気機関の発明により産業革命が進んだ。また生活様式も電気・水道が整備され、電化製品で満ち溢れるようになり、また、インターネット、スマートフォン等で情報量が飛躍的に増加し、情報で溢れる世の中になった。

このような人類の発明と技術革新がもたらしたものはなんであったのであろうか?医療の発達により乳児の死亡率の減少や、病気の治療技術の向上により平均寿命は伸びてきた。電力の導入により体を駆使する仕事が減り、水洗された水を使うことにより日ごろの健康管理状態も向上している。また、航空技術の発達により、地球の反対側からも翌日に人・物の移動が可能となり、通信技術の発展により、情報は世界中瞬時に伝わるようになった。

このように見てみると、初めは人類が健康で、安全に暮らせる基盤が作られ、その後は便利(楽)に生活できるものが続々と出てきているように感じられる。個人的には、この便利さや、快適で楽な発明や技術革新は実は人類の本来もっている能力をどんどんと退化させているのではないかと思っている。特に近年では全くの自然界で生き延びることの出来る人間は、ほんのわずかに限られているだろう。時代と共に食料確保が保証されるようになり、体格の向上に伴って、体力も向上してきたが、最近は体力が低下してきているというデーターが多く出ている。また、数字で計測できる体力の他、数字では計測できない身体能力の低下については著しいものがあると考える。

この身体能力とは、人間の先天的な五感( 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚 )に加え、後天的に形成される空間感覚(平衡感覚、位置感覚、周辺感覚)を含んだ総合的なものであると考える。これ以下は自己解釈であるが、身体の訓練によって、自己の空間内での位置の把握、空間内での身体の均衡、空間の温度、湿度、気圧を含めた周辺の変化、気配とよばれる空間内での振動や波動等を感じ取る身体全体の感覚と言えるのではないかと思っている。

この身体全体の感覚(空間感覚)は、昔は自然界で体を動かし生活していた時期にはかなりのレベルに到達したのではないかと思われる。そうでないと、簡単に他の動物に食べられただろうし、方向が分からなくて、家に戻ることが出来ななかっただろうし、食物が見つからずに餓死しただろうし、移動した先が厳しすぎて環境に対応できなかっただろう。こういった後天的な感覚の発達が少ない人種は自然淘汰され、残りはこういった感覚・能力を高めることのできた人種が生き残ったと想像される。

しかし、世の中が便利に楽に生活できるようになるに従い、こういった後天能力が使われなくても生活が安全に、安定してくるような時代に変遷していったのは、昔も変わらないと思われる。そういった流れの中、日本では江戸期の平和な時代に、武芸や座禅が広く行われるようになり、身体感覚(空間的感覚)を錬磨したことにより、世の中の流れ、または空気を読む能力を養っていたと思われる。

これらの身体感覚を鍛えるために先代が残してくれたものが「型」ではないかと思っている。単に武道の技を極めるためだけれであれば、「型」は弊害にもなりうる。例えば弓道で矢を的に射る技術で八節という「型」があるが、的の位置(距離28m、地上27㎝)に変化がないために、反復練習を行えば、八節なしでも的中は可能である。であるので、的中を目的としたものではないという事が分かる。この「型」はもちろん時代と共に変化し続けており、弓矢を使って戦争していた時は精度と威力に重きがなされ、心と体の鍛錬の為には繰り返し行う事によって、わずかな心身の変化を感じることのできる身体の自然な形を基本とした「型」へ変わってきているはずである。

弓道のみならず、全ての日本の伝統的な武芸において存在する「型」は先代が我々に残した身体感覚の鍛錬方法であり、これは外から見た「形」にとらわれることなく、社会の変化に応じてその時代にあった「型」へ進化し続ける必要があるのではないかと思う。また武道では所作が決められており、弓道では基本体として姿勢、動作が決められている。この所作では正に空間の感覚を磨くのに最適で、例を挙げると、生命活動も源となる呼吸法、空間での位置、距離、時間の感覚を学ぶ「間」の取り方や、身体を自然の法則に照らし合わせて無理なく隙なく動作を行う方法が示されている。これら身体能力の向上と、空間感覚を鍛えることによって、日常生活においても健康・健全で安全な場の取り方や身体の配りかた、周りの空気を読み、一歩先を感知することの出来る能力を養うことも可能と考える。正に武道を通して日常を豊かにする稽古といった位置づけになる。

近年では特に便利・身体的に楽なものに価値が見出されている傾向にあり、度が過ぎると身体能力や空間感覚がますます退化していくだろう。現に車に乗り歩かなくなる、椅子に腰かけ地面との接触が少なくなる、底の暑い靴を履いて体の負荷を減らす、空調の聞いた室内での生活(稽古)等で、物が体に変わって仕事をしたり、障害物とのダンバーとなることから、体のセンサーと身体能力がますます退化していっている。携帯やナビを使っての移動等で物が人間の空間感覚をどんどん妨げている現状である。

こういった現状では、武芸の稽古だけにとどまらず、日常生活でも出来るだけ歩く、素足で歩く、外の空気に触れる、便利なものを必要時以外には使わないようにする。満たされた状況を作らない(腹一杯に食べない、飲みすぎない等)努力も必要と考える。世の中がどんどん便利・楽になっていく中、そういった時代だからこそ、武道で身体能力と空間的感覚を磨く意味が今後ますます重要になってくると考える。