型=非日常的身体操作=術技

黒田鉄山(第十五代振武館宗家)という武道家が遅早不二(遅い動きでも早い)の説明をしている。要約すると、型として伝えられている術技的身体操作は言葉で言い表すことが出来ないので、その理論を型によって表現していると語っている。また、武道の型には非日常的な物が多く、それを繰り返し行うことによって初めて身体が武術化するとも言っている。反対に日常の筋肉の使い方は武術では邪魔になるともいっている。

ユーチューブ等で黒田鉄山の動きが紹介されているが、その凄さが言葉で表現できないほどである。隙の全く無いところから起こりがなく、軸がぶれず、モニター前で見ているだけでも意を突かれた状態となる。武道の神髄とはこんなものなのかと思わせる身体操作である。その黒田鉄山が語る遅早不二について聞いたとに思わずはっとなった。これは絶対的計測可能なスピードの事を言っているのではなく、①武道の型は見えない(起こりのない)動きの理であること。②非日常的な型(術理)の身体の動きは、反応できない技となる。

今まで基本体、射法八節の稽古の中で漠然と型について何か少しづつ分かり始めて来てはいたが、今改めて、型の稽古とは何か、型が何を教えてくれるのかが見えてきた気がする。今までは最終的には「自然体」が理想という概念があり、型を繰り返し稽古することにより、自然の理が理解でき、身体レベルで自然とその環境で最適な動きができるようになるのが良いことであると考えていたが、それは、もしかしたら外から見た第三者がそうゆう風に描写するだけではないかとも考えられる。

これは、弓を引いている本人の心境と、それを見ている人の違いと同じである。射手を見ている人は、動作が全く無駄のない自然な動きで、離れも全く作為のない自然の離れであったと思うが、実際に弓を引いている射手は、黒田先生の言葉を借りると、内部的には、一定方向へ一定の速度で動き続け、(即ち外から見たら不動)術技的身体操作(非日常的な術として)をもって、相手(見ている人)が見えない内部の動き、反応できない離れを成し遂げる事ではないかと考える。そうするといわゆる意を突かれた離れであるので、実際の離れの速度に関係なく、外から観察している人間にとっては「神速」であったと感じるだろう。

型とは、非日常的身体操作により形成される術技として理論であり、この理論は全て型に包括されているが、具体的に言語で語る体形とされていいない。その理論は身体操作によってのみ体現できるものとなっている。従って、いわゆる「口伝」というものは、この型に包括されている術理によって何か可能であるかを伝えたものであったのではないだろうか?であるとすると、黒田鉄山先生の言葉は正に武術一般の型の考え方に対する「口伝」ともいえる。今回はこの先生の一言で道が明確になったような気がする。次の一射からは新たな挑戦が始まるかと思うと今からワクワクする。