弓道指導者育成と社会的合意について

今年から2年間、将来の弓道指導者養成の講師として、該当者に対し、各地でセミナーを行う事になった。
武道が生まれ形成された土壌が欧州にはないので、既存の一般的に認識されているスポーツトレーナー養成コースがシステムとして使われている。
武道(弓道)はスポーツ的な面は当然あるが、それがすべてでないので、コースではそれ以外のことを教える項目が設けられていない。よって、実際には一般社会では一応、トレーナーとして通用する(認められる)が、弓道のトレーナーとしてはあくまでその一部を学んだに過ぎないと考えている。


このトレーナー養成コースは2年間で、120時間、週末10回をつかっておこなわれる。流石にドイツだけあって、システム作りには長けている。これは、ヨーロッパ大陸で、国境に接している国が最も多くことからも物語っているように、異なった人種、宗教、慣習が常に存在するという土壌に根付いている。
そういった国で伝える手段としての「言語」とその枠組みとしての「システム」を完璧にする必要があったからであると推測される。良く言えば、能力の全くない人でも、このシステムを使えば、最低レベルまではたどり着くことが出来る。しかし、悪く言えば、武道は「言語」を手段としてはあまり使わず、形という「実践的システム」を用いているために、
この「言語システム」が逆に武道指導の本質を妨げるのではないかと危惧している。

言語を使って頭で理解し、システムに従って、指導するやり方は、いわば教科書を読んで聞かせ、ビデオ教材をあたえ、
実践させてフィードバックを与え、精神的サポートをするといった一般的なスポーツの指導としては、有効で、
実際に自分がそのスポーツができなくても指導できるといった利点はある。しかし、武道の理論は「言語」で言い表すことが出来きないものが「形」に包括されており、形の実践により、その理論が分かってくるようなものについては、その道を既に辿った人が、その経験に基づく実践的理論を指導する方法が、現代でも有効と考える。

このように、自分の考える指導者養成方法と、現存しているシステムとのギャップはあるが、ドイツという国でドイツ人に対して、日本産の武道を理解し、次世代に指導できる人を養成させるためという目的を考えると、やはり、受け手側にとっては何が一番かと考える必要がある。従って、自分はそう考えるという意見はあってもいいが、他人(受け手)は何をどうゆう風に受けたいのかという事が完全に理解できないうちは、現在の社会的合意が出来ているものを使用しつつ、その中で一個人として考える事も多少のスパイスとして与えるのがいいのかもしれないと思っている。